第1回:「足りないものを補う」大切さを知った少年時代

シリーズ共通

不登校、高校中退、そして鍼灸の道へ……。逆境の青春時代を乗り越え、「公のために尽くす」ことを信条にして、ビファイン治療院グループや保育園ベビーエイトなどのさまざまな事業を形にしてきた宮内あきら。これまでに味わってきた葛藤を打ち明けながら、逆転勝利を実現した人生観を綴ります。

代々続く「医師家計」の末っ子として誕生

生い立ちを振り返ってみると、本来なら私は「自分は何と恵まれた環境のもとに生まれたのだろう」と感謝するべきなのかもしれません。

父方の祖父は地元で名の知られた秀才で、18歳のときに特待生として日本医科大学に入学し、その後は医師となりました。東京・杉並区の高円寺で産婦人科医院を開業し、盲腸治療の分野でも権威として有名だったと聞きます。明治生まれの祖父は5人兄弟の末っ子で、上はすべて姉。男尊女卑の風土が根強く残る時代に、「我が家の期待の星」として持て囃されて育ったのでしょう。

そんな祖父のもとで生まれた父もまた、優れた医師として、才人として評判を集める人物でした。少なくとも家庭の外においては、という条件付きですが……。

私は男ばかりの3人兄弟の末っ子として生まれました。祖父が築いた地盤のもと、宮内家は高円寺で裕福な暮らしを営んでいました。しかしこの父親には、家庭内暴力という負の側面があったのです。夫の暴力に耐えかね、母が神奈川にある実家へ逃げたのは、まだ私を身ごもっているときだったそうです。

ストレスで母乳も出ないほど憔悴していた母。しかし、子どもたちを守るという強い思いのもとで、父が経営する病院の仕事を続けていたといいます。結局、私が1歳のときに両親は離婚。父親とは一度も同じ屋根の下で暮らしたことがありません。ただ、養育費はしっかりと支払われていたようで、その後も我が家が金銭的に困窮することはありませんでした。

ガキ大将の心にあった「おばあちゃんの教え」

そんなこんなで無茶苦茶な環境ではありましたが、とはいえ医師の家系に生まれたという事実は変わりません。上の兄2人や私には「お前も将来は医者になるんだ」というプレッシャーが降りかかってくるような環境でした。私自身、中学校に上がる頃までは、自分はいずれ医者になるのだと何となく想像していたのです。

育児に十分な時間を避けない母に代わって私を育ててくれたのは、母方の祖母。今にして思えば、何と甘えん坊な少年だったのだろうと思います。中学1年までずっと、私は祖母と一緒の布団で寝ていました。それくらい「おばあちゃん子」だったのです。

祖母は明治39(1906)年生まれ。日本が日露戦争に勝利し、ポーツマス条約を結んだ翌年です。昔の軍人をとても尊敬していた祖母は、彼らが国を守ってきてくれたことに感謝し、誇りに思っていました。小学校に進めば授業で戦争のことを教わったり、『はだしのゲン』を読んだりして、子どもながらにさまざまな知識が頭に入っていきます。ある日、祖母に「昔の日本は悪かったの?」と聞いたら、「そんなことはないんだ!」としっかり真実を教えてくれました。昔の人たちがどんな思いで国を守り、家族を守ってきたのか。その物語を教えてくれたのでした。

そんな風にいつも祖母にべったりとくっついていた私は、末っ子ということもあって、兄たちに比べればのびのびと過ごすことができました。兄にはよく殴られ、いじめられていましたが、私はそのストレスを発散するかのように外では威張り散らしていました。小学校のクラスではガキ大将のような存在になっていました。

そんな「横暴な子ども」の中にも、昔の日本軍人がいかに正々堂々とした存在であったかを説いた祖母の教えはしっかりと息づいていたようです。ガキ大将ではあっても、理由もなく誰かを殴りつけたり、集団でいじめたりすることはありませんでした。いじめにあっているような子がいたら、無理やり自分の隣に座らせていました。そうすれば周りが配慮し、いじめられなくなることが分かっていたからです。

格好を付けて言えば「任侠心」のようなものがあったのかもしれません。しかし一方では、「自分が安心できる環境を作りたかっただけなんじゃないか」という気もします。

小学生の頃に感じた「人と組織の構図」

クラスのいじめられっ子に大工の息子がいました。勉強は全然できないけれど、父親譲りの才能があるのか、図画工作はとても得意。その頃の私はというと、勉強は比較的得意なほうでしたが、工作は大の苦手でした。よく、勉強を教えてあげるのと引き換えに工作をやってもらったものです。そんな風に自分を助けてくれるやつがいじめにあって、学校に来なくなってしあうようなことがあったら一大事。彼を守ることは、自分自身を守ることでもあったのです。

後年、自分が経営者という立場になってから、なぜかこの大工の息子をよく思い出すようになりました。あのときの私と彼の関係は何だったのだろう、と。「俺は弱い立場の人間を放っておけない性分なんだ」と思って自己満足に浸っていれば、それでいいのかもしれません。しかし現実は、いい大人になった今もそんな簡単なものではありません。

人は誰しも得手と不得手があり、それぞれに生かされる環境があるのだと思います。当時の私が勉強を教えることができ、彼が工作の才能を発揮して簡単に私の課題を助けてくれたように。そんな「人と組織の構図」を、経営者になった今だからこそリアルに感じます。

自分のもとで働いてくれている社員たちには、それぞれに得手と不得手があります。人は往々にして、不得手にばかり目が行ってしまうもの。特に若いうちはなおさらです。私は過剰なほどに社員たちと話す時間を取り、しつこいくらいに根掘り葉掘り彼らの話を聞くことを続けていますが、どんなときでも思うのは「こいつには何と素晴らしい得手があるのか」ということ。不得手は誰かに助けてもらえばいいのです。得手を伸ばすことが何より大切。そんなことを語り続けています。

 

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